« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »

2016年1月16日 (土)

調子が悪い~なんとかしないで、練習をやめましょう!

今日のレッスンで大笑いしました。

*練習している時
「ああ~、うまく歌えない」

➡「できるまでよく練習しましょう!」は×。
ひとまず「練習をやめましょう!」が〇です。


そして

お茶でも飲む?
散歩に行く?
スクワットする?
「練習を中断する」
勇気を持ちましょう。



ますます練習して、
ドツボにはまっている人、ありませんか?
今日はさっさと切りあげて、よく寝て、
明日に期待しましょ☆!


歌うのと、
ピアノを弾くのは違うのです!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016初レッスン~耳は最大の敵である

今年の初レッスンは、倉敷の自宅でのレッスンから始まった。

年末に、本を読んだという方から、メールをいただいた。
音大卒で、今更、大歌手になろうとは思えわないけれど、ずっと歌っていたい。。。
なのに、全く発声がわからなくなってきたのだという。
もうやめようかと思った時、Amazonで私の本をたまたま見つけて読んだのだそうだ。
(40代女性)


レッスンしてみると
確かに、迷っているのがよくわかる。

でも、迷い過ぎのように思える。

ホントに迷っているのではなく、迷っていることを迷っていると自覚できない状態と言っていいかもしれない。
だいたい自分の声を聴いて、いちいち確かめすぎだ。それはできないのに。
なぜなら、出た声は「結果」なので、それを聴いて修正するのでは遅すぎるし、混乱するだけだ。
だいたい自分の声は、「自分の耳」に聴こえるのと、実際に外に出ている声が違うことを知っておくことが大切だ。
(「うまく歌える『からだ』のつかいかた」
p112 耳は最大の敵である)


「歌う」とは、自分の声を「どのように聴けるか」「聴かなくていいか」ということを
同時に知る・学ぶことであると思う。

それと同時に、レッスンは当然、生徒の方が主役で、
その生徒自身が「自分が何者であるか」をわかる過程ではないかと思う。


でももし、ただ「きれいな声」「美しい響きの声」だけを求められるレッスンで
その本来の自分の声を否定したり、失ったりしている自分に気づくなら、
その方法を改める必要があるだろう。

自分の声は自分にしか出ないわけだから、
貴重ですばらしいものなのに
それに気づいていない人も多い。

さて、彼女からレッスン後、メールをもらった。

**********************

今日は、お世話になりました。
帰り道も、とても晴れやかで、体が軽くなりました。
できない~できない~わからない~わからない~から、
歌だけでなく、心も縮こまっていたので、川井先生は、
歌の先生と共に、心理学の先生にも見えました

勿論、まだまだなんですが、
やよやよ~と、胸を意識した姿勢で歌ってみると、
伸び伸びと歌え、驚いています。

まだ、1回だけなのに、明らかに、今までの意識と違います。このままの、自分でいいんだ!と言われているような発声で、自分の声で歌っている実感が、自然でありながら、味わえなかったものだったので、本当に嬉しかったです。

音大時代のレッスンは、本当に楽しく、それが、蘇ったかのようでした。
思いきってご相談してよかったです。
2016年の、最高の幕開けになりました。

来月も、また、よろしくお願いいたします。
ありがとうございましたm(__)m

**************************

きっと彼女は、自分を見つけ、
どんどん先に進むことができるだろう!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月 2日 (土)

新年おめでとうございます~「動的平衡」

Photo


新年あけましておめでとうございます!


今年は申年、
「伸びる」年ですね。



Photo_2

(なぜか写真は横になっていますが)、
うちにある「備前焼の申」
やはり新年は気持ちが改まります。
。。。といいつつ、「片付け」を新年に持ちこしてしまいました。
かなり捨て中。
一番、たくさんあるのは、書類の山。
本を書く際のメモ、校正の際のプリントアウトしたもの、
そう、私って全くのアナログ。。。
画面だけでは済まないの。・・;)




ところで、こんな記事を見つけました。
(岡山県には、山陽新聞という地方紙があるのですが、
元旦の記事です。)


細胞は、絶えず外部に不必要になったものを出し続け
『動的平衡』を保つ。



『動的平衡』、
今年の私の中のキーワードとなりそうです。

~~~~~~~~~~~~~~~
生命の論理から地方を考える   
福岡伸一

 

中枢と末梢という言葉がある。国や社会の組織でも、首都と地方都市の関係でも使われる。

中枢と末梢とは、もともと生物学の用語である。脳が「中枢」であり、それ以外の身体部分が「末梢」だとされる。でも実は人間が勝手に生命をそう見立てているにすぎない。

 本当のことをいえば、脳は生命にとって中枢ではない。そんな偉そうなものでは全然ない。というのも、脳は、それ自体では自発的に情報を作り出すことも、命令を下すこともできないからである。

 脳がなくても生命体は立派に成り立つ。実際にそのような生物はたくさんいる。ミミズなどははしご状の神経回路が頭部から尾部に均等に広がっているはずだ。もしミミズに「君の心はどこにあるの?」と尋ねたら、ミミズはぼんやりおなかのあたりを見るだろう。

 ところで、細胞にとって一番大事な仕事は何か。それは絶えず増大するエントロピー(乱雑さ)と戦うことである。

 世界が乱雑さが増大する方向にのみ進む。壮麗なピラミッドは年月とともに風化し、ダ・ヴィンチの傑作でさえ退色し、ひび割れする。

エントロピー増大に最も果敢に対峙しているのは何か。高度なの秩序を維持している私たちの生命体だ。

 いかにして?「動的平衡」によってである。動的平衡とは、細胞の内部にたまるエントロピーを絶えず外部にして続けることである。

 エントロピーは、酸化、変性、老廃物の蓄積といった形で絶え間なく生命に降り注ぐ。

 これと戦うため、生命は自らを頑丈に作るのではなく、むしろ常に壊しつつ、やりなおすと言う方法を選んだ。分解と更新の流れこそが生きていることの本質である。これが動的平行である。

生命は、動的な流れの中にある。

この動的平行の視点を、人間組織、社会のあり方、あるいは中央と地方の問題に当てはめることができるだろうか。
会社組織の硬直かや衰退、あるいは人口減少や過疎化による地方都市の不活性化やインフラの劣化は、すべてエントロピー増大の危機といえる。

 細胞は作ることよりも壊すことの方を一生懸命やっている。その上で動的平衡をフル回転して、柔軟性と可変性を取り戻す。そして生命は環境の変化に適応し、進化を遂げてきた。動的とは、物質・エネルギー・情報の動きのことだ。社会ならこれに人の動きが加わるだろう。

 最初に述べたように、首都と地方都市、中央と地方の関係でも使われる中枢と末梢とは、単なる見立ててあって主従関係ではない。進化の過程では、むしろ末梢の細胞が先にあり、生命の本体であり主催者だった。後になって末梢の利便性のために中枢が作られた。脳は末梢ための奉仕者としてある。首都や中央も地方の奉仕者であるはずだ。

 末梢は常に中枢を巧みに利用している。末梢で発生した事象は良いことであれ、悪いことであれ、すべて中枢に伝達される。中枢はそれを統合・整理して、各末梢に伝える。

 つまり末梢とって中枢とは、有用・有益なメディア装置なのである。この情報のやりとりによって末梢は、過剰なものを分けあい、足りないものを融通しあって、分散的な自律性を模索する。これを相補的な関係という。末梢同士の関係はローカルな相補性の中にある。

 ジグソーパズルのピースのように、地方と地方の相互性が少しずつ共鳴し、重なり合うことによって、大きく強靭なネットワークが生み出される。私たち人間の組織も、生命の動的平衡に学ぶべきである。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »